診察スタイル
1)問診
医師の仕事は患者の抱える問題(痛み、苦しみ、悩み、不安等の症状)をまず医学的に正しく把握することから始まります。これこそが最も大切なことです。これを誤って把握すればその後の診療は、どんなに精緻に組み立てようと、砂上の楼閣でありすべてが誤りとなるからです。
症状や問題点を患者から詳しく聞き取る場面(問診)では、医師は話を聞くことが中心となります。医師はもっぱら聞き役に回りその間に患者を観察します。医師からは確認するための追加質問や補足的質問だけに留まります。話を聞き、症状や問題点を医学の土俵に載せ、医学的な検証の対象にすることが問診の作業です。
問診では、医師は話しに神経を集中させ、細心の注意を払い、時々患者の話の内容を整理し確認しながら、患者の抱える問題の真の姿を医学的に正しく把握するよう、耳を澄まして観察します。限られた短時間ですが、脳細胞はフル回転しており脳細胞の消費カロリーも相当程度になっているでしょう。
話を聞きながら病気の本質を検討し、想定する病気を検証するために患者に幾つかの質問をします。質問の答えで医師の考えを再検証します。患者から話を聞く、病気のイメージを構成する、質問する、返事を得る、病気のイメージを再検証する、再度質問する、このフェードバックのサイクルです。
問診が終わる頃には、医師は恐らく可能性のある幾つかの病気のイメージを絞り込んでいるでしょう。患者にはまだ発表しませんが。
2)身体診察、臨床検査、診断
続いて患者の身体所見をとります。既に患者の病気のイメージを数点に絞り込んで想定していますので、その病気に応じた身体所見に集中して患者の体を診察します。想定した病気から表れるはずの身体の異常所見を見つけます。異常所見の有無、程度、バリエーション等です。
率直に話せば、ベテラン医師は問診とこの身体の診察所見を取った段階で、その病気のイメージがほぼ出来上がっています。つまり診断をほぼ絞り込んでいるのです。
その先は絞り込んだ病気のイメージに沿った幾つかの臨床検査を選択しスケジュールします。いろんな臨床検査はその病気の診断を最終的に確認するためか補強するためのものです。
問診の情報、身体の異常所見、各種の臨床検査データなどを総合して、患者の問題症状を起こす原因となった病気を一つに絞り込みます。
しかし、この段階で一つの病気だけに絞り込めないことも多く、その後の追加の検査や治療の反応を見ながら病気を最終的に確定する作業がさらに続く場合も少なくありません。
問診、身体所見、臨床検査の結果から、医師が最終的に結論した一つの病気の名前(病名=診断)がここで患者に告げられます。
3)医師から説明
最終的な病名(診断)が決まる段階になると、その病気の解説、今後の病気の見通し、治療法などを医師から分かりやすくお話することになります。この場面では、医師はほとんど一方的に患者に話すことになります。
医師からの話し方次第で、「何も話してくれない」、「説明が分かりやすい」、「ブッキラボーな説明」、「丁寧な説明」、「尊大な態度」、「冷たい話し方」、「信頼できる口調」、「安心した」、「心配・不安になった」等々、患者からの印象で医師の評価がされるでしょう。
4)診療スタイル
こんな流れで医師の診療は進みます。患者の病気の種類に関係なく、この診療の流れ全体をカバーする医師の独特な個性的雰囲気があります。これを医師の診療スタイルと呼びますが、医師によりかなりの違いがあると思います。
医師の仕事は誰が行っても本質はみな同じです。しかしその進める様式には、医師の人生観まで含めて、医師それぞれの個性が色濃く表れます。
患者から見ると、医師は個別にかなり違ったように見えるかも知れません。しかしその違いこそ医師の診療の個性であり、その医師の独特な「診療スタイル」と言えるのでしょう。
もしどの医師もみんな同じに見えたなら、それは患者にとって不幸なことだと思います。
生死、品格、尊厳の話題は慎重
病気の説明、今後の見通し、治療の解説などは、患者にとって大変大切な話です。同時にまた不安なことでもありますから、患者の性格や個性に応じて医師の話し方は微妙に変わります。どんなに風変わりで個性的性格の患者であっても、病気を正しく理解してもらえるよう分かりやすく工夫して話すのが正論だと思います。しかし実際には、医師も人間ですからそのように理想的な対応がいつも出来るとは限りません。
一方、患者にお話しする際に、患者の個性とは無関係に、私が特に注意していることは、衝撃的内容であったり、患者の生死、品格、品位、尊厳に関わる問題の場合は非常に慎重にするよう心がけています。具体的な例として2つだけお話しします。
1)癌の告知
議論はありますが、私は患者本人に癌を直接告知することは原則的にしない方針です。特に進行癌ではこの話は、まず最初に家族をお呼びして家族にすることにしています。患者本人が最も信頼する家族に病院に来てもらいます。患者のいない席で慎重に病状と今後の方針をお話しします。
患者には本当の病気とは異なる良性の病気の可能性が高いことを中心に話しますが、悪性の可能性も勿論説明しておきます。白黒をつけるために追加の検査が必要なことや手術などの可能性も話します。当院では癌の治療は出来ないので他院へ紹介することになります。
時間が経てば本人もいずれそれとなく本当の病気は分かるものです。それまでのしばらくの時間も患者にとって大切な時間かも知れないと考えています。
2)認知症
認知症に関する診断や治療も、相当に進行した場合は別にして、比較的初期のまだ軽い場合には、私から本人に直接お話しする時には、かなり言葉を選んで慎重に配慮する様に心がけています。多くは「年齢から来る物忘れが強いので、その薬を飲んだ方がよい」などと説明するようにしています。
このように人の生死、人格、品位、尊厳に関わる問題でなければ、原則的にほとんどの診療情報は隠さず本人に直接お話しすることにしています。
情報の開示は可能な限り徹底するようにしています。検査や治療に関しては、利点も欠点も含めてお話しします。その上で私がお薦めする検査や治療を選択した理由も同時に話します。
コラムは私の診療の鏡
制約の中でコラムを書くもどかしさ
医療の原点は、患者の悩みや苦しみの中にこそあります。その悩みや苦しみは患者毎に非常に個別的です。また極めて多彩です。
医療とは、患者の個別的で多彩な悩みや苦しみを解き放つのが最終目的です。従って診療は患者が苦しんでいるその問題の本質を正しく把握することが非常に重要です。ただ話を聞くだけでは全く不十分です。病気の本質に迫れるよう徹底して細部にわたり詳しく話を聞かなければなりません。
患者の訴える痛み、悩み、苦しみは、時に肉体臓器の病気ではなく心の問題かも知れません。しかし「病気ではなく気のせいだから、気にしないことです」という説明は使わないようにしています。
医師からの治療がそれだけなら患者は救われません。それを解決するための可能なあらゆる手段の提示が医師のするべき治療だと思います。
コラムでは読者と直接の対話が出来ません。従って個別的な悩みを直接聞いたり、体を診察したり、臨床検査をしたり、検査データを検証して、その総合判断で診断するという医療の基本的な流れは成立しません。
この医療の基本が成立しないコラムの制約にもどかしさを感じながら、それでも多くの不特定多数の読者に向けてコラムを書き続けています。